将監の歴史

七北田川中流域には、左右丘陵の麓から河川に向かって数段の河岸段丘が発達している。この段丘地帯全てが水田耕作地として利用されてきた。この段丘を潤すための源泉とする、灌漑用水路・溜池・堤・堰等の用水施設には、先人たちの長い間の英知と苦労が偲ばれる。七北田川流域両岸に今も残る溜池や水路は、まさに先人たちの英知の結晶とも言うべき「歴史遺産」なのだ。
安永三(1774)年の「風土記書出」中の「新堰」については、次の通り記されている。
「七北田新堰、堰本根白石二而、国分小角村 実沢村 上谷刈村 野村 七北田村 市名坂村 七ヶ村 入会用水 」
 右 溜高 百拾壱貫 六百壱文

とあって、この新堰は、根白石 下町裏に川幅約30間(50m)の堰堤を設け、そこから堀を穿ち延々五里(約20km)に及ぶ、七北田野山(将監団地)の将監堤で終るという、流域最大の堰であった。
 この堰(せき)の水路途中には、根白石銅谷・村崎の両奥地から八沢川があって、実沢から野村方面には地上水路は通せない。そこでこの深い八沢川の西から東側へ川底深く潜穴を掘り、噴き上げて通水を可能にした、「隧道掘削工法」という巧妙な技術をほどこして貫通させている。この「涌(わく)上り(あがり)隧道工事」を含め、流域一帯の灌漑にまつわる土木工事には、元禄年中(1688~1703)、土木家・設計技術者でもあった大越喜右衛門・横沢将監らの尽力は偉大であったと言う。したがって、「将監沼」は元禄年間に築堤された、段丘上水田灌漑のための重要な「新堰」だったのである(この堰堤の効用で、当時流域灌漑面積は約110町歩、総石高は約1116石の生産を誇った)。

将監団地、将監沼の「将監」の由緒をみると、仙台藩祖、伊達政宗の重臣(三百石)で山根通実沢村の寺岡山・立田に住む「横沢将監吉久」という歴史上の人物に因むという(※将監=君主を守る判官・近衛)。
   元和二年(1616)九月30日、伊達政宗の船「サン・ファン・バウチスタ号」は支倉常長遣欧使節一行を出迎えるため、再び太平洋へ乗り出していった。この渡航について「伊達治家記録」は以下のごとく伝えている。
「元和二年八月廿日、戊(つちのえ)午(うま) 公(政宗)ヨリ 横沢 将監ヲシテ泉州堺津ヨリ南蛮国へ渡ラシム、今日便船有リ、堺津ヲ発ス、皆川与五郎、堺六郎ト云フ市人ヲ差添ラル、此事 カツテ(幕府の船奉行)向井将監忠勝ト相議セラレ、将監殿ヨリモ、船頭ヲ 横沢二差副エラル」  とみえる。
 出帆はしたものの、途中の太平洋横断は激波と風雨との挌闘の末、5ヶ月という航海で帆柱が折れたり、100人もの死者を出すといった必死の漕ぎ継ぎで、やっとのことでカリフォルニアに着く。即その沿海を南下して、翌元和3年(1617)5月、辛うじてアカプルコに到着した。メキシコに到着するや横沢将監は政宗の書簡や進物を総督・管長に呈上して、待望の常長やソテロと邂逅した。そして横沢将監は、ここアカプルコで洗礼を受けて「ドン・アロンソ・ファハルト」の聖名を受ける。支倉一行となった翌年(1618)アカプルコを発ってルソン島マニラに着いたが、ここでオランダ艦隊の襲撃を受けて足止めをくい、二年後の元和六年(1620)八月26日、牡鹿郡月の浦に帰った。

支倉常長・横沢将監吉久らの帰還を待ってか、仙台藩もキリシタン弾圧を一気に強めていったという。メキシコから帰還した横沢将監吉久は、かねてからの藩士仲間であり、胆沢川流域の新田開発で著名な後藤寿庵を尊敬しつつ、親交も深め交流をもっていた。
 元和3年(1617)付けの「ローマ教皇パウロ五世からの、迫害に苦しむ信徒を激励するための大赦令に関する書翰」が元和六年(1620)届けられる。これに対する返礼のための奉答書が作成され発送された。この返礼奉答書には、後藤寿庵を筆頭に横沢将監吉久・松木惣右衛門の署名がみえる。しかし、その後の横沢将監吉久は棄教して、実沢村寺岡山の立田で隠棲しつつ、新田・土木開発等を通して郷土の発展に尽力したと伝えている。
即ち、七北田野山・実沢寺岡山一帯は横沢将監の住処であったのだ。その遺名として「将監沼」が継承され、かつ「将監」なる地名ともなっているのだ。

「将監沼の自然」とふれあいを育む会

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